感情と論理のダブルスタンダード
いまさらだけど、
1年くらい前の出来事。
「僕はあいつのことは、大っ嫌いだけど、
頑張ったのは事実だし、それで周囲からの信頼も得て、次のチャンスを与えられた。
だからと言って、好きになるかと言われれば、そうじゃないけど、
新しい環境でも頑張って欲しいし、ちゃんと成果を出して報われて欲しいな。」
と、よくわからない感情を抱える出来事がありました。
詳細は省きますが、
僕はその人のことが大っ嫌いです。
人見知りなので、
「苦手な人」は多いんだけど、
数少ない「大嫌いな人」なのです。
どれくらい嫌いかというと、
(苦手な要素A×苦手な要素B)+(苦手な要素C×苦手な要素D)+(※中途省略)+(苦手な要素Y×苦手な要素Z)=「大嫌い」
というふうに、多少のプラス材料じゃ、ひっくり返せないくらい、嫌いな状態なのです。
ただし、1年前の「事実」を、ひとつひとつ組み立てていくと、
「周囲からの信頼を得ている」「仕事に対する責任感も強い」「新しいチャレンジの場を与えられた」
ということで、
「他者からの評価が高い」というのが、事実から導き出したひとつの答えでした。
僕は、ちきんと努力した人が報われたり、
成果を出した人が正当に評価されることが好きです。
だから、彼のことは、大嫌いなのは変わらないけど、
彼が、頑張って報われた事に対しては嬉しいし、
今後も「頑張って欲しいな」、と思うのです。
周囲からされている事に対して、
「うまくやりやがって」とか
「評価者の目は節穴か」とか
嫉妬方面に走らなかったのが幸いですね。
同じ事実でも、
「感情」というフィルターを通すと、
「解釈」は大きく異なってきますからね。。。。
と、いまさらなんで1年前の話を持ち出すかというと、
この本を読んで、
「空気の研究」山本七平
1年前の僕の感情の構造がわかったからです。
ただ、たまに、
「嫌いなものを、「嫌い」で完結させれたら、どんなに楽だろう」
と思いますけどね。
さて、いまから負け戦に出陣です。
命を取られないだけマシだな。
では、今日はこの辺で。